■ 日本の伝統薬 陀羅尼助丸 ■ | 陀羅尼助は、古くからの伝統に支えられた民間薬で、関西地方その周辺では家庭常備薬、あるいは修験山伏の持薬としても知られており、子供の頃から苦い薬といえばダラスケとしてまかり通っていました。 陀羅尼助は和薬の元祖ともいわれ、現代にいたるまで薬効で知られています。 |
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■ 陀羅尼助の由来 ■ | 飛鳥時代の斉明天皇3年(657)のこと。内大臣の藤原鎌足が急に腹痛をおこして苦しみ、天皇は大変に心配して、百済の禅尼法明に維摩経を唱えさせた。すると験があり薄紙をはぐように鎌足の腹痛が治りました。ところが一説によると、実は役行者が鎌足の病気をなおしたとも伝えられています。 その頃、疫病が、大和、河内、摂津から山城、近江と広がり、朝廷では医師を派遣したり薬を配給しました。この時、役行者は道場茅原寺(今の奈良県御所市茅原吉祥草寺)の門前に大釜を据えて薬草を煎じて呑ませました。さしもの疫病の大流行もおさまり、役行者に対する民衆の信頼は一層高まりました。 |
| 役行者には、前鬼・後鬼と呼ばれた弟子がいました。行者には大峯山で修行中に、今後山中で修行する山伏達のため山中に多いキハダの皮から万病に効く「だらすけ」の製法を後鬼に伝授しました。これが大和洞川の陀羅尼助の起源とも伝えられています。陀羅尼助の主原料は黄柏すなわちキハダです。キハダは古くから朝廷に貢物として納められていました。 |
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■ 江戸期からの陀羅尼助 ■ | 史実上、陀羅尼助の名が出てくるのは文楽浄瑠璃で、延享4年(1747)大阪竹本座で上演された『義経千本桜』には「洞呂川の陀羅尼助」の請け売屋が出てきます。また『役行者大峯桜』寛延4年(1751)では、苦味ばしった男役「陀羅助」が登場し「だらすけ」の口上を唱えます。陀羅助が自分の名を薬の名にして、竹の皮と箱を提げ在所を売り歩いたとあり、陀羅助の名が知られていました。 陀羅尼助の陀羅尼は仏教の<総持>の意味で、助は救助する薬を意味し、経典にも陀羅尼経というのがあります。さて、和薬陀羅尼助は、山伏によって各地にもたらされ、また大峯参拝者は、吉野・洞川で土産として買い求め、諸国に運ばれていきました。 また、その効能から遠く江戸にも送られ、江戸の薬問屋相模屋では、陀羅尼助の効能書を刷り込んだ紙に包み販売していました。その効能書には、役行者御夢想「大峯だらにすけ」御免として菊の御紋が刷り込まれていました。文化年間(1804~1818)には、その売価は1包24銅となっています。 |
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■ 陀羅尼助とは… ■ | ヘボン式ローマ字の創始者であるヘボンが作った日本で最初の和英辞典『和英語林集成』(1867)には、「陀羅尼介」と「万金丹」がでています。「Daraniszke or daraszke, ダラニスケ, 陀羅尼介 A kind of bitter medicin.」とあります。大江戸には大和の陀羅尼助の評判は高かったことから、当時流行った川柳に<だらすけは腹よりはまず顔に効き>というのがあります。 |
| 板状の陀羅尼助は、慣れない人には呑みにくいので丸薬が造られるようになりました。キハダエキス単独では、製丸しても互いに固着して団子状になるので、ガジュツやクシンなどを配合して丸薬を製造していました。これが、和漢薬「陀羅尼助丸」の初期のものです。 これに配合・賦形薬を研究して、現在では「陀羅尼助丸」として製造販売されています。 |
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胃腸薬としての陀羅尼助の主成分は、アルカロイドのベルベリンとその同族体などです。ベルベリンには消炎作用もあげられており、古来から陀羅尼助は打ち身や捻挫、眼病にも応用されてきましたが、薬事法の改正による再評価でこれらの効能は効能書から排除され、胃腸専門薬となりました。 | |